軸にはいつも、カルチャーがある。デザイナー・佐藤慶蔵
佐藤慶蔵が10代、20代を過ごしたのは、裏原宿のストリートブランドと音楽と雑誌がひとつながりでカルチャーをつくっていた時代だ。アーティストのジャケットやブランドのビジュアルを手がけるグラフィックデザイナーは、そのカルチャーを形にする存在だった。佐藤が憧れたのも、そこだった。
社会に出る頃、デザインの主戦場は紙から画面へと移りつつあった。ウェブ、モバイル、やがてUI。平面とデジタルの境目で業界ごと流れが変わっていくなかで、佐藤も画面のデザインへと進んでいく。それでも、軸にはいつもカルチャーがあり、グラフィックがあった。佐藤慶蔵に、これまでと、これからを聞いた。

裏原の時代に、グラフィックを志す

大学時代は、裏原ブームの真っ只中。周りの友人はみなストリートブランドの店に通い、佐藤もその空気のなかで過ごした。
音楽やファッションのビジュアルをつくる世界に憧れて、出版社やデザインの会社をいくつも受けた。けれど、実績のない学生の前に、扉はなかなか開かない。就職先は簡単には決まらなかった。
そんななかで採用してくれたのが、ウェブ制作会社のグループ企業だった。どれだけ実績があっても、人柄が合わなければ採らない。人を何より大事にするその会社で、面接官は佐藤を「なんかいいな」と見てくれた。一緒に働きたい、と思ってもらえての入社だった。
ウェブの最盛期に、小さな画面と向き合う

働き始めた2000年代半ばは、ウェブデザインの最盛期。デザイナーが手がける領域の多くが、画面の中にあった。ガラケーのモバイルサイトから、やがてスマートフォン、レスポンシブへ。
やりたかったのは、グラフィックだった。日々の仕事をこなしながらも、どこかで違和感を抱えていた。
「新卒の頃は、本当にウェブデザインが嫌いで。なんでこんなに画面が小さいんだろうって」
それでも、黙々とこなしていった。
振り切った案と、無難な正解

デジタルデバイス中心のデザインを経験し、グループ会社への出向などを経て、コンペの提案を担うチームへ移る。佐藤の役割は、振り切った案をつくることだった。
「どうせ没なんですけど、派手なものを作れる人は提案に入れてもらえるんです」
クライアントの反応はいい。それでも、最後に選ばれるのは無難な案だった。そんな役回りを数年続けるうちに、実力もついてきた。次第に、形に残る実績が欲しくなっていく。
そこへ、先輩から声がかかった。転職先ではデザインチームの立ち上げに加わり、組織づくりに追われた。やがてその先輩も会社を離れ、気づけば40歳が見えていた。いい会社ではあったが、デザイナーとしての成長に、行き詰まりも感じ始めていた。
「ちゃんとUIデザインをやっておかないと、食いっぱぐれると思って」
それまでは、人のつながりや時代の流れのなかで働く場所を変えてきた。自分の意思で、危機感から転職を決めたのは、意外にもこのときが初めてだった。次の会社で数年、デザイナーとしての地力を引き上げて、現職へ。いまはウェブからグッズまで、デジタルとアナログを問わず、あらゆる媒体のデザインに関わっている。
センスという軸の上で

佐藤の根っこには、いつもカルチャーがある。そして何より、人柄がいい。クリエイティブの実力もセンスもある。その雰囲気は本人はもちろん、持ち物や住まいにまでにじみ出ている。
取材で訪ねた自宅は、センスにあふれていた。インテリアコーディネーターの資格を持つ妻と一緒につくった空間を、時代に合わせてカスタムしながら使い続けている。置かれているものは新旧さまざまだが、センスというひとつの軸の上で調和している。
なかでも宝物は、小学生の頃から使っている机だ。林業を営む実家の木材でつくられたもので、いまも現役で使っている。
時代の流れに乗りながらも、自分の芯は手放さない。そのふたつを調和させながら、佐藤は自分をつくってきた。
インプットも欠かさない。紙、動画、音声。方法を選ばず、いまもあらゆるものを取り込み続けている。
インプットも、アウトプットも止めない

本業を続けながら、インプットも続けたい。そう思いながら、声をかけてもらった仕事のデザインを手がけてきた。その部分を最大化させるために始動したのが、デザインユニット〈EYE-SEE®〉だ。
これからもデザイナーとして、あらゆるインプットとアウトプットを止めずにやっていきたい。佐藤は、そう語っていた。
PROFILE
Keizo Sato
デザイナー|〈EYE-SEE®〉
1983年生まれ。グラフィックデザインを志し、ウェブ制作会社に入社。提案チーム、デザインチームの立ち上げなどを経て、現在は事業会社でウェブからグッズまで、デジタルとアナログを横断してデザインを手がける。2026年、デザインユニット〈EYE-SEE®〉を始動。
