自然体、あるがままに——陶芸作家・栗田千弦
26歳の栗田千弦が会社を辞めたのは2007年のことだ。京都にある美術関係の会社で、日々の実務を任される立場にあった。辞めたあとの身の振り方はまだ決めておらず、次の仕事を探すまでのつなぎのつもりで実家に戻り、陶芸家の父の仕事を軽い気持ちで手伝い始めた。
会社員時代は、無数の美術品に囲まれる時間でもあった。あるとき、会社が名古屋で開いた展示イベントで、なんとなく手に取った器に目を奪われた。それが瀬戸の陶芸家・加藤唐九郎の作品だと知ったのは、まさにその場でのことだった。そういう出会いの積み重ねが、栗田自身の好みや、作りたいものの方向を少しずつかたち作っていった。

病床で習った、窯の火入れ
父のすすめで信楽窯業技術試験場の素地釉薬科に一年通い、2011年に修了する。その終盤、父の体調が急速に悪化し、同じ年の11月に他界した。栗田は客からの注文を代わりに作り、病室に通っては窯の焚き方を教わった。陶芸家としての道は、思っていたよりずっと早く、そして急に始まった。
継いでほしいとは、父から一度も言われたことがなかった。むしろ表向きは、手伝いなど要らない、この世界に入ってくる必要はないという態度だった。ところが、栗田が以前勤めていた会社の先輩――独立して貸ギャラリーを営んでいた人物――が、生前の父の個展に足を運んでいたことがある。父はそこで、本当は娘に店を継いでほしいのだと漏らしていたらしい。父の死後、その先輩からその話を聞かされて、栗田は継ぐ決意を固めた。先輩は栗田の門出を祝うつもりで自身のギャラリーを格安で貸し、最初の個展、その後さらに二度の個展をそこで開かせてくれた。

父の面影を継ぎ、自分の表現へ
はじめのうちは、父の作っていたものを忠実に引き継ぐことしか考えていなかった。自分の想いを表現するというより、父を支えてくれていたお客さんの期待に応えたい、という気持ちのほうが強かった。店のトレードマークになっている、笑った栗の絵柄も、もとは父が考えたデザインだ。
転機になったのは、お客さんとのやり取りだった。使い方を教えてくれる写真やメッセージが届くたびに、もっと使いやすくできないか、喜んでもらえるものは何かと考えるようになり、栗田自身がデザインを考案することが増えていった。「しのぎ」――かんなで削って模様をつける、陶芸に古くからある技法――もそうして自分のものになった一つだ。技法そのものは父の代からあるものだが、そこに工夫を重ねるうちに、いつしか栗田の作品を見分ける手がかりになっていった。
日常に寄り添う器という考え方も、父から受け継いだものだ。値段は抑え、うっかり割ってしまっても一日がっかりする程度で済むような、暮らしに馴染む器。栗田はその感覚を引き継ぎながら、そこに自分なりの表現を少しずつ足してきた。2年ほど前から手がけている、琵琶湖の水草を釉薬に使った器はその延長にある。あえて分厚く、無骨な仕上げにしたそのシリーズは、大津で活動するガラス作家の紹介がきっかけで生まれた。試しに焼いてみたら、案外うまくいった。

自然体、あるがままに
長女という立場もあってか、周りの期待に応えたいという性格が、栗田にはずっとあった。店を続けてこられたのは、いろんな人に助けてもらったからで、自分のやりたいことばかりを優先していたら、たぶんうまくいかなかった。周りに引っ張られながら、それでもしっかりした方向を選ばせてもらってきた。栗田はその感覚を、「自然体、あるがままに」という言葉で表す。
その姿勢は、押しつけがましい自己主張とは少し違う。誰かに応え続けてきた先に、気づけば残っていた自分らしさ、というほうが近い。

用途から生まれる形、そこに滲む個性
絵は描けない。動物や具象物を写し取るような技術もない。だから栗田の制作は、いつも「何を作るか」という用途から始まる。花を活けるためのものなのか、食器なのか。用途が決まれば、そこに求められる安定や形の制約が見えてくる。
「これ、この突き破ってる形をどこかで見つけて。じゃあこれで花入れ作ろう、ってところからスタートするんです」
それでもあえて、倒れやすいほど細い脚を持つ器を作ってしまうことがある。
「安定させようと思ったら、普通の形になっちゃうんですよね。それはそれでつまらない」
万人受けを狙うわけではない。ただ、無難なものを作っても仕方がない、という感覚がある。応えることに徹してきた人の中から、こういう形で個性がにじみ出てくる。

日野と信楽、二つの故郷
栗田の作陶は、日野の自宅にある窯と、信楽の店とを行き来するかたちで続いてきた。近年、日野には移住者が増え、同世代やより若い世代がクラフトビールを作るなど、この町の魅力を発信するようになっている。生まれ育っただけの自分が、この町を人に勧められるようになったことを、栗田は喜ばしく感じているようだった。
信楽についても同じだ。父の代からのお客さんや、父の陶芸仲間が今も店を訪ねてくれる。どちらの土地も、人との繋がりに支えられてここまで来た。2024年9月、栗田は工房兼店を信楽から日野へ移した。生まれ育った土地に、あらためて根を張り直すような選択だった。
根を張り直したこの場所で、栗田は新しい関心にも向き合い始めている。以前、依頼を受けて作った高さ80センチの花入れを、花人が活けてくれた写真を見たとき、ふだんの食器とは違う存在感に胸をつかれたことがある。その経験がきっかけで、より大きな作品にも挑んでみたいと思うようになった。今は毎月の企画展や個展の準備に追われ、大きなものを作る時間はなかなか取れない。それでも、誰に頼まれたのでもない形を、これから少しずつかたちにしていきたいと話す。
一人で始めた仕事だったら、とうに辞めていたかもしれない。父が続けてきた歴史があり、その中で関わってきた人たちがいる。その人たちが咲かせてくれた時間を、無駄にはできない。

PROFILE
Chizuru Kurita
陶芸作家|日野
陶芸作家。2007年に会社を退職後、陶芸家の父の仕事を手伝い始める。2011年、信楽窯業技術試験場の素地釉薬科を修了。同年、父の他界を機に作陶の道へ。父の意匠を継ぎつつ、「しのぎ」や琵琶湖の水草を使った釉薬など、自身の表現を積み重ねている。2024年9月、工房兼店を信楽から日野へ移転。
